再びアメリカへ

初めてのアメリカ挑戦から帰国後、私はさらに心を閉ざしていた。気心の知れた仲間のみに真実を伝え、再びアルバイトを見つけて、トレーニングを再開した。今振り返れば19歳の反抗期だったのかもしれない。自分の思う世界が描けなく、もがき、誰とも話をしたくなかった。

そんな何の取り柄もない私を救ったのは、当時の仙台大学トレーニングセンター長加賀洋平氏(現GS Performance代表)だった。大学内で行き場をなくした私にトレーニングプログラムを与えてくださり、私のバカみたいな話にいつも付き合ってくれた。S&C(米国の大学スポーツにおける競技力向上を目的に誕生、発展したトレーニングプログラム)の本場アメリカへ渡り、本気で自分と向き合って生きてきた加賀氏の存在は、競技を超えて私のロールモデルになっていた。

トライアウトのため滞在したフロリダ

そして迎えた2010年の冬。私は独立リーグのトライアウト(入団テスト)を受けるためにフロリダへと飛び立った。

現地へ到着して数日、私の故郷・仙台では成人式が行われていた。フロリダは深夜遅い時間だったが、仲間が電話をくれ、みんなの声を聞くと、私は俄然やる気が高まった。私が宿泊していた「バッキーデントベースボールアカデミー」という施設には簡易ベッドがいくつも置かれていて、壁を歩くヤモリとともに暮らしていた。

到着して数日、トライアウトを受験する仲間が徐々に増え、1週間のプログラムがスタートした。初日、予定されていたプロのコーチがなぜか現場に姿を現さなかった。そして、地元の大学のコーチだという人物のトレーニングセッションがスタートした。私は、何が何だか訳も分からずに参加していた。

トライアウトにスカウトが来ない!

このときに感じた嫌な予感は、的中した。そのトライアウトには、最後の最後までプロ野球のスカウトが来ることはなかったのだ。体裁は「トライアウト」と言いつつ、スカウトらしき人すら来なかった。当然、集まった選手は全員怒っていた。それでも私は意味もなく何かを信じ、最終日まで練習に参加した。正確に言えば、英語がうまく話せない私は泣き寝入りするしかなかった。

しかし、「人間万事塞翁が馬」。素晴らしき出会いが、この1週間で2回もあった。1人は選手として参加していたアメリカ人のミチ、もう1人は現地に在住していた日本人の長又淳史氏(現広島東洋カープ通訳)との出会いだった。

その不思議なトライアウトを終え、移動手段も住む場所もなく、そして英語がうまく話せない私は行き先をなくしていた。そんな危機を救ってくれたのが、ミチだった。何がきっかけで仲を深めたかは覚えていないが、その後2人でフロリダ州メルボルンにある彼の家に移動し、次の行き先が決まるまでの間、滞在させてもらうことになった。

フロリダで広げたネットワーク

ミチの家に滞在して毎日練習に励みながら、インターネットで次のトライアウト先を探す毎日を送った

私は年齢が3つ上のミチを兄貴のように慕い、メルボルンへ行ってからも毎日練習に励みながら、インターネットで次のトライアウト先を探す毎日を送っていた。ミチからは、本当に多くのことを学んだ。自分を売り込むための履歴書を作り、ビデオを作成し、球団の連絡先を調べ、送るということを繰り返していた。

ある日、そんな私たちを見たフロリダ技工科大学野球部の監督が、私たちに大学の施設を使う許可を出してくれた。それからは練習のたびに仲間が増え、フィリーズとマイナー契約をしている選手や、ニカラグアのウィンターリーグに向けて準備を進める選手たちと練習をするようになっていた。さらに、大学の選手とも仲良くなり、同世代のパーティなどにも誘ってもらい、アメリカ文化にのめり込んでいった。しかし、肝心の野球の方は、その後も応募したトライアウトがキャンセルになるなど運にも見放され、もどかしい日々を過ごしていた。

フロリダ州メルボルンでは多くの選手と仲良くなり、ネットワークを広げた(左端が色川さん)

その後、アリゾナで開催されるトライアウトリーグ参戦を決意し、約1カ月のフロリダ生活を終えて移動することにした。その道中に長又氏の家に泊めてもらい、将来について熱い話をした。野球ではなかなか結果を出せない日々ではあったが、確実に前に進む何かを感じていた。フロリダで広げたネットワークは、その後も現地の野球状況を知るのに信頼できるアメリカ東地域の情報源になっていた。

Respectfully,

TOMA