生まれ育った街の変貌した姿に唖然

東日本大震災直後に帰った故郷の宮城県沿岸部は、変わり果てた姿だった(2011年3月撮影)

2011年3月16日、私は日本に戻った。しかし、東京から自力で仙台に帰るすべがなく、大学でお世話になっていた東京の恩師の家に泊めてもらっていた。すぐに仙台に戻りたい思いはあったが「一人でも多くの人を助けるために東京にいなさい」と恩師に言われたのをよく覚えている。

3月21日、支援物資を車いっぱいに乗せた恩師の車で仙台に帰ることができた。戻った翌日から、私は津波で被災した叔父の自動車整備工場の復旧の手伝いをしていた。生まれ育った街の変貌した姿に、唖然とするしかなかった。

私の自宅も仙台市内にあるが、水、電気の復旧に1週間、ガスの復旧には1カ月以上かかった。食材や生活用品の買い物も困難を強いられ、ガソリンが手に入らないことが一番大変だった。震災後、東北ではガソリンを小まめに満タンにしようと呼びかけている。いつ、どこで、このような震災が起こるか分からない日本で、読者の皆様にも万が一に備え可能な限りガソリンの給油を小まめにすることをお願いしたい。

アメリカの球団を辞退し、大学復学を決断

故郷・宮城県の変わり果てた姿に唖然とした(2011年3月撮影)

仙台へ戻り、普段であればアメリカへの渡航に向け、練習、トレーニング、そしてバイトをするのが毎回のお決まりだったが、私は復学に向け動いていた。そして4月、私は入団が決まっていた球団に、アメリカに戻らない旨のメールを送った。

震災があったから、アメリカに行かなかったのではない。震災を機会に、私なりにこれまでのこと、そして今後のことを必死に考えた結果の、前向きな決断だった。この時までは、「大学を辞めてアメリカで野球をする」ということを一番に考えていたが、アメリカで野球選手としての限界を知り、「野球することだけがすべてではない」とも考えていた。

「自分だけが挑戦できる世界」を探る日々

大学に復学し、子どもたちへの講演活動にも挑戦した(2011年当時の写真)

私が通っていた仙台大学は東北で唯一の体育大学であり、私が専攻していたスポーツ情報戦略コースで、さまざまなアスリートの生き方を学ぶことができた。マイナースポーツの世界では、仕事と競技生活の両立が当たり前だったり、自らの身体と英語力を駆使しながら海外を転戦しているアスリートがいたりすることが分かり、そうした違う競技に目を向けると、私にも何かできるのではないかと思うようになっていた。

日本でも世界でもトッププロであれば、そのスポーツを極めるだけのために、限られたアスリート人生を費やすのが普通だ。しかし私の場合、この時点でトッププロの領域の選手ではないことは明らかだった。世界的にも野球環境が恵まれている日本では、なおさらトッププロとして、野球のみに専念する「プロ野球ライフ」が一般的だったが、私だけが挑戦できる世界があるのではないか、と、自らが生きる道を必死で探った。

「学ぶ」ことの大切さに気付く

世界での自分の経験を子どもたちに伝えて回った(2011年当時の写真)

小さいころから野球だけをやっているのが楽しかった私だったが、このころから野球選手としても、人間としても、「学ぶ」ということが成長を促し、生きる幅を広げる大切なものだと考えるようになっていった。また、自らの経験を次世代を担う子どもへ伝えようと、各教育機関へ足を運び、前向きな思いと自らの経験を発信し続けた。すると、地元の小学校が共催で野球教室を開催してくれたり、地元の塾で子どもたちに私の経験を伝える機会をいただいたりと、活動の幅が広がっていった。大学の先生にも協力して頂き、自分を宣伝する動画を使うなど、アメリカで再び野球をするために「野球だけでない挑戦」も積極的に行った。

卒業単位をすべて取り、大学4年で再びアメリカへ

3年時に復学した私は、3年生で卒業単位まで全て取ると誓い、4年生時に、再びアメリカに挑戦するチャンスを作ろうと考えた。部活に属さない私は、野球ができる環境を自分で見つけ、学業、英語、そしてトレーニングに夢中になっていた。そして訪れた2012年の冬、私は再び野球をするために、フロリダの地に降りたった。

Respectfully,

TOMA